幕末史に名前を残す蛤御門です。
蛤御門の変、または禁門の変と歴史では教わると思いますが、祇園祭では「どんどん焼け」といって、ここで破れた長州藩が放った火によって大火になってしまった記憶の方が強いようです。
もっとも、当時はこの位置ではなく、もう少し東側に南面して立っていたとのこと。
長州藩は、この門を挟んで幕府型の会津・桑名藩と開戦。
中立売門から攻めた長州藩の来島又兵衛は御所内に侵入することは出来たのですが、幕府方援軍の薩摩藩に阻まれ、蛤御門の奥にある「清水谷家の椋」のところにて自害したそうです。(2枚目の写真)
京都の人たちからは長州藩の人たちは憎まれているなぁと思うところが時々あるのですが、さすがに京都御苑内の記述は淡々と書かれていると思います。
幕末期に、強力な尊皇攘夷論者であった長州藩が、転換して明治政府を作っていくには必要な通過儀礼の1つだったのかもしれませんが、一連の事件は惜しい人たちを次々と亡くしているなぁと感じます。