平安期とは違うので、寝殿造りのように池に船を浮かべて遊ぶようなことは無かったからなのか、池はあまり深くありません。特別に文献が残っているわけではないので、中央建物という素っ気無い名前がついています。
色のついているところが上に出ていた部分で、下の古びた木の部分が埋まっていた部分だそうです。このようなお勉強の空間が楽しくて好きです。
このような遺構が出てきたそうです。池の形は何度か変わっているそうです。
東院庭園という宴が行われていたところです。西建物は、このエリアの入り口の役割を持っています。
最近のコメント