(2)不満は水素爆発から始まっていた
2011.8.25 23:07
■ 水素爆発
首相、菅直人が受けた最初の衝撃は、3月12日午後3時半過ぎに1号機の建屋が水素爆発で吹っ飛んだことだった。
当時、菅は官邸に各党党首を集め、福島第1原発について「危機的な状況にはならない」と楽観的な見方を示していた。
それだけに、会談を終えて首相執務室に戻った菅は「一報」に震え上がった。同時に「現地から『大きな爆発音がした』という情報がありました」との東電からの曖昧な情報に「正確な情報が来ない」と不満を抱いた。
現場では、発電所長の吉田昌郎らが重要免震棟に詰めていたが、爆発した1号機全体を映し出すモニターがない。「外に出て確認します」と部下はいうが、放射線量が高く、外に出るのは容易ではなかった。
だが菅は、数時間前に現地視察したにもかかわらずそれが理解できず、「情報が遅い」の一点張り。
「どうなっているんだ」
東電のオペレーションルームに再三にわたって催促するが、爆発から1時間が過ぎても正確な情報は来ない。テレビ局が第1原発に向けたカメラを設置しているのを知っていた経済産業相、海江田万里が「NHKから映像を借りたらどうか」と提案。NHKには「諸般の事情」で拒否され、最終的に民放テレビ局の映像を借りた。
菅は、民放からの映像を見て水素爆発を確認するしかなかった。
「どうなっているんだ」
菅はすべての責任を東電に押しつけつつあった。官邸が見ることのできる第1原発の映像は、その後も民放局が提供したものが使われ、東電側が独自のカメラを設置したのは数日後のことだった。
■ ベント
11日午後3時半すぎ、大震災による津波を受けた第1原発は、1~3号機の電源が喪失した。停止した原子炉を「冷やす」作業ができなくなったことを意味する。温度上昇による炉内の圧力上昇が確実になる中、菅は午後7時すぎ、原子力緊急事態宣言を発令、「原子力災害対策本部」を設置した。
しかし、現地は地震と停電の影響で混乱し、東電本店も社長の清水正孝(当時)が出張先から戻れず、同様の状況だった。
官邸内も混乱していた。危機管理センターでは、危機管理監の伊藤哲朗らによる津波被害の状況把握が優先されていた。原発事故対応は首相執務室の隣室と危機管理センターの別室を充て、菅自らが陣頭指揮を執ることにした。
菅の意向は、官邸に詰めていた東電関係者を通じて東電本店のオペレーションルームに伝えられ、さらに現場に行く形になった。後に菅らは「伝言ゲーム」と自嘲するが、現場の状況が自らの思う通りに入らず、「東電は何か隠しているのではないか」という思いに駆られ、徐々に冷静さを失っていった。
午後10時、原子力安全・保安院が、2号機について12日には炉内の燃料棒が溶け出し、爆発が起きる可能性を指摘する報告書を作成、数十分後には菅に届けられた。原子力安全委員会委員長、班目(まだらめ)春樹も格納容器が破裂する可能性があると菅に指摘した。
ベント(排気)の作業を考えたのは、実は菅よりも東電側が先だった。12日未明、東電がベントの実施を通知、菅も追認した。
ところが、現場は作業に必要な電源がない上に、放射線量の上昇などでベント開始への作業は手間取った。現地の苦闘ぶりが入らない菅は、東電本店に「早くやれ」と執(しつ)拗(よう)に催促。それでもベント開始の連絡が入らないことに「東電はやる気がない」と、「東電不信」を募らせた。