スクープ この5月に福島第一原発で死んだ作業員に「たったの50万円」
なんてひどい国、恥ずかしい
タイ人の奥さんに「これで国へ帰れ!」
自分の命はいくらの価値があるか。即答するのは難しい。だが「50万円」と言われたら---少なすぎると感じる人は多いはず。ましてやそれが、国のために働いた原発作業員ならなおさらではなかろうか。
原発事故処理「初の死者」
5月14日。福島第一原発の事故から約2ヵ月が過ぎたその日、現場で復旧作業に当たる一人の作業員が死亡した。東芝の4次下請けに当たる協力会社から派遣されていた大角信勝さん(享年60)。原発事故に関連して死者が出たのは、これが初めてのことだった。
日本中を被曝させ、世界を震撼させた福島原発事故処理の犠牲者第一号となった信勝さんの遺族は、その後、どのような補償を得たのか。調べてみると、驚くべきことがわかった。なんと、協力会社は、労災申請を検討していたタイ人の未亡人に、わずか50万円の見舞金を渡し、「これで国に帰れ」と突き放したという。
「私の夫の命は、50万円なのか」---信勝さんの妻である大角カニカさん(53歳)は、怒りと悲しみを滲ませている。
カニカさんの訴えを聞く前に、信勝さんが亡くなるまでの経緯を振り返っておこう。
信勝さんは、自宅のある静岡県御前崎市を5月11日に出発して福島に入り、13日から集中廃棄物処理施設の中で配管工事や高濃度汚染水の回収処理などに当たった。翌日、午前2時半に宿舎を出発。第一原発のシェルター内で作業着に着替え、午前6時から作業を開始して20分ほどが経過したときのことだった。約50kgある鋼材の切断機を同僚と一緒に運んでいる際、体調が急変。意識不明の重体となった。
当時、現場には医師が常駐しておらず、信勝さんはすぐに処置を受けることができなかった。医療設備の整ったいわき市立綜合磐城共立病院に搬送されたときには、発症から2時間40分が経過していた。なす術もなく、9時33分、信勝さんの死亡を確認。後日、死因は心筋梗塞と診断された。
「こんなに急に死んじゃうなんて。それなら、行かなきゃよかったじゃないですか・・・・・・。お父さん(信勝さん)を返してほしい」
カニカさんは声を詰まらせる。信勝さんには両親と2人の兄弟がいたが、皆すでに他界しており、残された家族はカニカさんひとりだ。
タイのバンコクから東北へ250kmほどの場所に位置するコラートという村で生まれ育ったカニカさんは、バンコクを訪れていた際、仕事で来ていた信勝さんと市内のレストランで出会った。タイ語が話せず、困っていた信勝さんに声をかけて助けたことがきっかけで付き合いが始まり、8年前に日本で結婚。子どもはなく、御前崎市で信勝さんと二人で暮らしてきた。
信勝さんは、それまでも溶接工として石川県・志賀原発、静岡県・浜岡原発、島根原発など各地を転々としてきた原発労働者だ。地方の原発へ行って6ヵ月ほど働き、自宅に戻って次の仕事を待つという生活を繰り返していた。
福島からの電話
「5月の初め、私が仕事から帰ると、お父さんが嬉しそうに『ねぇ、あきちゃん(カニカさんの日本名の愛称)、仕事が決まったよ! 2~3日後に出発するから』って報告してくれました。私も喜んで、『じゃあ、お父さん、パーティーしようか。何でも好きなものご馳走するよ』と言って、福島へ出発する前の5月10日、家で2人のパーティーをしたんです」
出発の前日、カニカさんは新しい作業着、靴、帽子、下着などを買い揃えて、かばんに詰め、信勝さんに手渡した。夕食は鯛の刺身と豆腐の味噌汁、カレーライス・・・・・・と、信勝さんの大好物が食卓に並び、缶ビールで乾杯した。地方へ行く前の二人きりの宴は、大角家の恒例行事だった。
「お父さんは、『お腹いっぱい』と、とっても喜んでくれた。そして、私はお父さんの髪を切って、爪を切って、髭を剃ってあげました」
その後、風呂場で夫の体を丁寧に洗いながら、カニカさんは言葉をかけた。
「ねぇ、お父さん。お仕事行ったら、頑張ってよー。私ね、何もいらないから、お父さん健康で戻ってきて。あとね、田んぼの車も忘れないでね」
田んぼの車が欲しい。それは、カニカさんが以前から信勝さんに伝えていた願いだった。
「原発の仕事をあと2年頑張って、そしたら田んぼの車(耕運機)を買って、タイに一緒に帰って農業をしようねって約束してたんです。お父さんは、うんうん、って聞いてくれました」
見送りの際は、いつも無事を願って指切りを交わす。福島原発へ向かう日の朝も、固い約束を交わすため、小指ではなく親指で指切りをした。厄除けのため、火打ち石を打つ真似をしながら、「お父さん、いってらっしゃい!」といつものように笑顔で見送った。
「その日の夜、福島についたお父さんから、電話がありました。遠くへ行ったときはいつも必ず電話をしてくれるんです。『母さん、着いたよ。いまミーティングが終わったところ。寂しい?』とね。『大丈夫。お父さん、早くお風呂入って、ご飯食べて、早く寝なさいね。頑張ってね!』と私が言うと、『お前も、頑張ってやれよ!』って」
これが、夫婦が交わした最後の言葉になった。カニカさんは、夫が福島に行くことは聞いていたが、まさかあの大惨事が起こった福島第一原発の現場に働きに行ったとは、そのときは理解していなかったという。
最後の電話から3日後。仕事を終えてカニカさんが自宅へ帰ると、留守番電話に何件ものメッセージが入っていた。
「信勝さんが亡くなりました」
ショックのあまり、その場に倒れこんだ。やっとの思いで起き上がると、協力会社が手配した車ですぐに福島へ向かうことになった。車中では一睡もできなかったという。
「なにそんなお父さん、嘘だろーって、全然信じられなくて。夜の9時に家を出発して、(福島に)着いたのは翌朝の4時半頃。福島警察署で、棺おけに入ったお父さんに会えたのは、午前10時少し前です」
横たわった信勝さんの顔は、両耳の辺りの皮膚が濃い紫色に変色し、顎と頬に擦り傷がついていた。
「お前! 裏切ったな!」
「『本人かどうかの確認をしてください』と言われて、顔を見ても(死んだということが)まだ信じられなかった。顎の傷は、マスクが息苦しくて外したような痕だった」
信勝さんはその後、福島の火葬場で荼毘に付された。カニカさんは、残った信勝さんの喉仏の骨を大事に包み、御前崎市の自宅に連れて帰った。
それから2ヵ月も経たない7月初めのことである。
「(協力会社の)社長さんに誘われて、食事へ行ったとき、『50万円やるからタイに帰れ!』と言われたんです。『明日の夜、50万円持って家に行くから、印鑑探しておいて』と」
はじめは、タイにいる自分の家族に会いに行けるし、いい話だと思って聞いていた。だが、「印鑑をちょうだい」と言われたことがひっかかり、労災申請の手続きで相談していた鷹匠法律事務所の大橋昭夫弁護士に電話をかけ、「印鑑は押さないほうがいい」とアドバイスを受けた。
「50万円は欲しかった。でも、先生に相談しておカネを受け取るのはやめたんです」
翌日の夜、協力会社の社長が自宅を訪れた。そこで、労災申請について弁護士に相談していることを知った社長は激高し、カニカさんを指差しながら「お前! 裏切ったな!」と叫んだという。
「『違うよ、社長。私裏切りじゃない』と言ったけど、社長は怒って『もうお前のことは切る(関係を絶つ)!』と言って、帰りました」
この一件から10日ほど経ったとき、協力会社の事務員が、信勝さんが福島原発で働いた際の給与を渡しに自宅へやってきた。5月11日から亡くなった14日までの4日間で8万円。1日2万円の日給だった。これ以降、協力会社の社長からは一切連絡はない。
業務中に亡くなった人の命がたったの50万円。協力会社の社長が提示したこの金額は、どのような根拠で決められたのか。当の社長に問い合わせると、まくし立てるような口調で次のような回答が返ってきた。
「その話は、ご破算になったんだよ! どこが(カニカさんにおカネを)支払う、支払わないは、あんたらに言うことじゃないじゃん。なんで言わにゃいかんのだ、ワシが。どうして50万かって? 50万じゃないよ、100万くらいで、オレが話をつけとったんだよ。50万というのは、彼女がどういう顔をするかと思って、様子を見ただけのことなんだよ」
「100万円の予定だった」
つまり、こういうことだという。50万円の見舞金は、東芝の4次下請けであるこの会社の社長が3次下請けの会社に掛け合って渡すことが決まったもの。金額は当初100万円程度の予定だった。50万円を提示して反応を見てから決めようと思っていたが、カニカさんが弁護士に相談して労災申請をすることを知ったため、すべて白紙に戻した---。
ちなみに、カニカさんは前出の大橋弁護士の協力のもと、7月13日に、元請けの東芝が労災保険窓口に指定している横浜南労基署で手続きを行った。現在は労災申請の認定待ちの状況だが、大橋弁護士は、
(1)東電や東芝が、過酷な作業に従事する原発労働者を守る医療体制を十分に取っていなかったこと
(2)放射性物質が飛散する劣悪な環境の中で、重く蒸し暑い防護服を着用しながら、精神的な緊張を強いられる作業をしていたことが死因となった、などの理由から、労災が認められるべきだと主張する。
「労災認定されれば、遺族補償として2ヵ月に1度、ある程度の生活ができるだけの保証金が出ます。また、労災申請の結果が出た後には、別途、東電や東芝に対して、賠償請求を行うことも考えています」
だが、今後もし労災が認められたとしても、信勝さんの死から5ヵ月が経過した現在においても、東電や元請けの東芝からも、見舞金や補償金は支払われていないことに変わりはない。
今回の問題には、原発作業員を派遣する企業の請け負い構造にも問題がある。信勝さんの場合、東電から原発の現場作業を請け負っている東芝が元請けで、その下に3つの下請け会社を挟み、信勝さんが所属していた4次下請け会社があるように、次々と仕事が別会社に委託されていく。そのため、東電や東芝からしてみると、現場でどんな作業員がどのような状態で勤務しているかを把握するのが非常に困難になっているのだ。
今回の事態について、東芝はどう考えているのか。広報に問い合わせると、次のような回答が得られた。
「御遺族の代理人から、亡くなった方の直接の雇用先に対して、ご遺族への直接接触を控えるよう要請がされており、それを踏まえて現時点ではご遺族に対して当社からはご連絡をとっておりません。現時点で当社としては、労働基準監督署が労災か否かの判断をスムーズに下せる様、誠意をもって、労災申請に関する事実の解明に協力していく所存です」
代理人である大橋弁護士は「遺族を脅かすような接触はしないようにと伝えただけ」だという。謝罪や見舞金の支払いをするな、という意味ではないということである。
また、東電の広報は、「発電所で復旧に向けた作業に取り組んでいただいた方ですので、何よりも故人のご冥福をお祈りするとともに、ご遺族の奥さまに対して、哀惜の意を表したいということしか申し上げられません」という。
冥福を祈ることは誰にでもできる。だが東電と東芝も単なる第三者ではない。原発事故の処理で尊い命が失われたことを、もっと深刻に、自らの問題として受け止める必要があるのではないか。
カニカさんは、現在も夫と一緒に暮らした家賃4万5000円の家に一人で住んでいる。毎朝4時半に起床し、5時には自宅を出て職場へ向かう。帰宅は、遅い日は夜9時頃になる。「残業やらせて、と言って頑張って、月にお給料は16万円くらい」。以前は、仕事を終えて帰宅すると、食事を作って待っていてくれる信勝さんが「おう、おかえり」と迎えてくれたが、今はもう、誰も出迎えてくれない。
「私、日本語の読み書きできない。お父さんいるときはいつも一緒にいて教えてくれたけど、今はいないから不安で・・・・・・。本当は、もうタイへ帰りたいくらい。でも、(労災申請で)補償をもらうまでは頑張る。おカネもらったら、お坊さんとお父さんの親友を呼んで、葬式をちゃんとやってあげたい。お父さん、天国に行って、幸せになってほしい」
「週刊現代」2011年10月22日号より
世が世なら、靖国に祀られる英霊じゃないのか?
それが大袈裟だとしても、国葬、せめて社葬くらいにしてあげてもいいんじゃないだろうか。
あくまで噂話ですが、原発作業中に亡くなったのは3名ですが、どうもそれだけではないようです。
作業中でない人を合わせると、もう少し増えるようです。
あくまで噂です。
地位も名誉もなく、賃金もなく・・・。
そのうち、原発作業員はいなくなるんじゃないでしょうか?