1月22日に、強行軍で宮城に行ってきました。
従姉とはいえ、私が唯一「ねえちゃん」と呼ぶ人を飲み込んだ雄勝まではなかなか足を踏み入れることができませんでした。
今回は、覚悟を決めて家を出ました。
行く手を阻むように、東北道は通行止め。
妻と運転を交互にしながら、仮眠をとりつつ桃生へ。
田舎には迷惑をかけたくないと思っていたので、内緒で本家のお墓と雄勝に行くつもりだったのですが、雪でお墓の場所も分かりません。
ご住職さんに場所を聞いたところ、うちの本家は少々有名なので、あっという間に本家に連絡されてしまってバレました。(笑)
ご住職さんが案内してくださるというので待っていたところ、後ろの扉が開いたと思ったら「おんちゃん」が立っていました。
そこからかっ飛ばして雄勝へ。
北上川沿いを下っていくと、津波のあとに気がついたのは4mくらいはある交通安全の看板の下が捻じ曲がっていたこと。
そこからは、1階が壁もなくがらんどうになった家々。
よくよく見ていけば、堤防上の道路から見て田んぼに見えていたところも、電信柱が立っているところから家が建っていることが分かります。
そこからひと山越えて雄勝湾に入るわけですが、途中で道路が崩れていて、急造の道が作られています。
被害は津波だけでなく、地震の影響もあることが分かります。
山を下ると、雄勝中学校、小学校、雄勝硯伝統産業会館など、あきらかに全てが水没したと分かりますし、その周辺にあった町並みは何もありません。
原型が残っているビルでさえ、1年前までは正常に機能していたものとは思えないほどで、廃墟にしか見えません。
ガードレールは杭の部分だけが残っているのですが、その1本1本がまったく別々の方向に不規則に向いていることが津波のもの凄さや残忍さを語っているようで寒気を覚えました。
やがて、従姉の働いていた雄勝病院。
ポツンと廃墟のように見える病院が見えるだけですが、その周辺には同じく家が建っていたようです。
雄勝病院は重篤患者が中心だったそうで、従姉は地震のあとに車を市役所に動かして、歩いて病院に戻って患者を引き上げていたところを津波に襲われたそうです。
津波の高さは30mにもなったそうで、屋上に逃げてもダメだったのでしょう。
運動神経が良かったこともあるのでしょう。
先生と他の看護婦と屋根に乗ることができたのだそうです。
一人の看護婦さんは途中で落ちてしまい、丸太にしがみついたそうですが、そこで流れが変わり、その看護婦さんは陸へ、従姉と先生は沖に流されてしまいました。
船は流され、港も津波で破壊され、救助は難しかったそうです。
看護婦も先生も薄着ですし、その夜から降り始めた雪によって、屋根の上で亡くなられたようです。
陸に流された看護婦さんのおかげで、ギリギリのところまで分かっただけ良かったです。
しかし、その方も現在は生き残ったことを気にして、精神を病んできてしまっているそうです。
強く生きて欲しいです。
きっと恐ろしくってそんな統計はひっそりとしか作られないのでしょうが、雄勝の被害は被災地の中でも最悪の部類になるらしい。
石巻の小学校ばかりが有名になっていますが、雄勝の小学校でも手を繋いで避難をしようとした子供たちが飲まれたそうです。
細かくは分かりませんが先生がそれを気に病んで学校の裏で自殺をしたとも聞きました。
お墓に行きましたが、お寺も墓地もないらしく、連れて行かれたところは山の中に切り開かれた墓地でした。
いろいろなものが流された中からも復興しようとする意思が、整然と作られた立派な墓地に感じました。
雄勝病院の横でポツリポツリと語る叔父が、向こう岸はそんなに被害がなかったと3度繰り返したのが、決してグチらない叔父の心の声を聞いたような気がしました。
雄勝の海はあまりにも静かでした。
大学時代に、地震学の教授から熱心に研究室に来ないかと勧められました。
生きている限り面倒を見るとまで言ってくれました。
宮城県沖地震以来、地震や火山には妙に関心がありましたが、あまりの美味しい話に尻込みしてしまったことが、今日ほど悔やまれた日はありませんでした。
つくづく無駄な人生だとがっかりする。
ぐちゃぐちゃすぎて、今回はうまく書けないです。
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