今回は、攘夷派は天皇さんから見捨てられて、八月一八日の政変・七卿落ちと続きました。
それによって土佐勤王党も一気に叩き落とされることとなり、半平太投獄までの話となっていくわけです。
今回は、半平太の回と言っても良いでしょう。
いや、武市夫婦の回でした。
とても美しく、切なく、悲しい場面の連続でした。
しかし!
これだけお涙頂戴を畳み掛けられても、最近、年をとって涙腺の弱くなった私の心には、全くヒットしません。
それどころか、むしろ腹ただしくさえ感じてしまいます。
幕末に尊皇攘夷運動をしていたものはバカか?
時代の雰囲気に流されて踊っただけか?
龍馬伝の尊皇攘夷運動家の描き方には常々不安・不満を感じていたのですが、ここに来てもはや修正も不可能なのであえて言いたい。
大河ドラマは主人公こそいますが、基本的には群像劇なのだと思います。(去年のバカ大河を除く)
例えば、大ヒットした篤姫では、敵役となる調所広郷、井伊直弼の面々でさえ、その時代に自分に与えられた地位を全うすべく生きた人物として複雑な感情を与えられていて、決して単純な者や卑怯な小者には描かれていなかった。(篤姫を絶賛する気にもなれませんが)
この点は、評価すべきだと思っています。
そこには、脚本家や演出家・役者の歴史人物への敬意があればこそなのだと感じます。
龍馬伝の中での武市半平太は、「時代の流れの見えない尊皇攘夷バカ」として吉田東洋に足蹴にされ、上士の前では自分の普段言っていることが全く言えない内弁慶。
汚いことは岡田以蔵に押しつけ(これは事実だけど)、手柄はほとんど自分で独り占めしてしまうなど、自己顕示欲の強い小者扱いにされ、ひたすら龍馬やその周辺人物の引き立て役にされてしまっている。
佐藤健演じる岡田以蔵が人気だそうですが、それだって劇中での武市半平太の犠牲があってこそと思います。
そして、今回はついに「今更引き下がれない」と、半平太自身で尊皇攘夷運動を否定してしまう始末。
現代人の視点から作られたドラマはシラケル
結果として、尊皇攘夷運動はズレていたのかもしれない。
しかし、それは歴史を知っている後世の人たちに現時点での意見であって、当時の人たちは激動の時代に自分の道を探し、信じて、必死だったわけでしょ。
その中で、ある者は尊皇攘夷を信じて武士として死を選び、ある者は政商になり、ある者は「かんぱにい」を作る。
半平太は貶められて、弥太郎は日本経済の礎を築き、龍馬は日本の礎を築いたと英雄化していますが、それだって現時点の意見。
これから50年、100年経ってみたら、どこかで「8月18日の政変」が起こって、尊皇攘夷運動は正しかったとなり、私たちは天皇の地位を奪い、外国に軍隊を駐留させていた腰抜け扱いになるかもしれない。
そのとき半平太は英雄になって、弥太郎や龍馬は日本を売ったバカ扱いかもしれない。
歴史なんてそんなものだからこそ、せめて大河ドラマくらいは「その時代」を感じさせて欲しいと思います。
ドラマの中で、アリバイ作りのために勝海舟が「いろんな考え方がこの国にはあるから異人は厄介だと思って手が出せない」などと言わせていますが、それなら尊皇攘夷運動に関わった者たちの正義も見せてくれなきゃ納得いかないでしょ。
武市の正義が感じられないから、男の友情や夫婦の愛情を見せつけられても泣けない。
ちなみに、武市半平太・坂本龍馬には、正四位が贈られています。
まもなく出番終了となる望月亀弥太でさえ従四位が贈られ、その他の幕末の志士たち約1000名が京都の霊山護国神社に神として祀られています。
国のために命を燃やし尽くした者たちは神になっているのです。
これは、その後も続き、例えば日清戦争・日露戦争・第2次世界大戦などの戦没者も神として霊山護国神社や靖国神社に祀られています。
それが、正しいのか、正しくないのかの議論は置いておいて、命を的にして国家を守るために奔走した者たちは、村の誇り、町の誇り、国の誇りとして英雄となり、神となるという物語は、残された家族や友人たちの心を慰めるのには役立つのではないのでしょうか?
たとえ詭弁であっても。
ドラマですから、どうしても人格がデフォルメされてしまうことも分かりますし、悪役にされてしまうことがあるのも分かります。
しかし、郷土の英雄を扱っているという認識がなければ、いくらタイトルに「故郷の友よ」などというタイトルを付けても、武市を思う龍馬の心までは描ききれないし伝わらない。
本日、辛口。