ブログでは写真を2枚あげただけですが、知覧特攻平和記念館に行ってきました。
日本人のケジメ、自分の職業へのケジメとして、いちどは踏ん張って見てこなければいけないと思い、長い間、機会をうかがってきました。
特攻隊機が沖縄の海に向かう途中に見た開聞岳を横目に、終戦記念のその日を想像させる青くぽっかりと白い雲が浮かび、暑く乾いた空気の中にたどり着いた知覧の地は、私の住む関東の地よりも澄んでいるように感じます。
そんな空を見るだけで、涙腺が緩んでしまいます。
特別に、特攻隊の人たちを英雄視しているわけではありません。
また、思想的に右翼とか左翼とかは、自分の中に意識したことはありません。
戦時中という特別な空気の中、その時代に生きた人たちの精一杯の決断の中で、自分の命を的にそれが国を守ることなのだと信じた人たちに敬意を持ちたいと思うだけです。
車から降り、知覧の地を踏んだとき「遠くに来たものだ」とつくづく思ってしまいました。
「遠く」というのは距離的な話ではないです。
学生時代、戦争が起こったときに自分は?ということを、青臭いながら考えていました。
冷戦とか、アフガン侵攻とかがありましたからね。
職に就いたとき、戦争が起こったときに自分は?という自問自答は、複雑で難しくなりました。
それから20年。
スキーはやるものの病気は方手で納まらないほどになってしまい、薬漬けで日常生活をまともに送るにはかなり支障が出てしまうほど。
いつしか、「送り出す側」になってしまったことを痛感させられます。
戦時中の日本は、『大きな物語』の中にあったのだと思います。
英霊となり、靖国で会うという物語。
日本を守った英雄という物語。
志願をしたということになっている人も、決して心から望んでの志願ではなかったでしょう。
失礼な物言いになってしまいますが、数少ないいくつかの選択肢の中から特攻を選択したのだと思います。
中には、失神や失禁などをして、担がれるように戦闘機に押し込められた人も少なくないと聞きます。
後期には、軍の検閲が入ってしまうために、残された手紙や遺書も本音がなかなか書きづらくなったそうです。
特攻隊員の数だけそれぞれの思いがあるのでしょうが、『立派に戦った』『国のために戦った』という物語は、「送り出される人」にも「送り出す人」にも必要だったと思いますし、その人たちにありがとうと思うのが礼儀だと思います。(特攻隊員にかぎらず)
歴史を知る上で、その時代に生きていた人たちの決断を、今の時代の感覚で正邪を計ることはおこがましいことだと思っています。
帝国軍の上層部の人たちの考えはともかく、現場の急遽徴兵されて軍人とされた人々にとってみれば、その物語が正義と信じるしか無かったでしょうし、信じようと思ったのでしょう。
私も、その物語を信じて亡くなった人たちのために、日本国民の一員として感謝したいと思う。
そして、今の日本の現状に謝罪したいと思う。
日本の地位向上に協力することを誓いたいと思う。
自分が今の職に就いた以上、死ぬまで戦争が起こったときに自分は?という自問自答から逃げることはできないことは覚悟している。
知覧の空は、今の自分への答えを教えてくれたように思うし、あの空を胸に秘めている限り、これから先も間違えた決断はしないだろうと思える気がします。