<龍馬伝>暗殺の黒幕は?第4部はミステリー 前半最終回の福山、香川、大森の涙は「本物の芝居」
最近でいうと、龍馬が土佐に戻りました。土佐に戻って後藤象二郎に会い、武市を救いに行く。(その期間は)龍馬ファンにはすごく有名な空白の4カ月。龍馬って本当に研究が進んでいて、日割りで年表があるんですが、あの期間はない。そういうところこそ、フィクションとしてはおいしいところで、なにをやっても許される想像の範囲というか。龍馬伝ではそういう(フィクションとして)膨らませたところがうまくいっている。
鈴木CPにはもう少し絡ませてもらいますよ。(笑)
ちょっと気になったので、「篤姫」と「天地人」と「龍馬伝」を比べて欲しいのです。
【篤姫】 佐野CP
日本史上の新しいスーパーヒロインの誕生に、ご期待ください!
【天地人】 内藤CP
優しさの中に揺るぎない強さを秘めた兼続像は、新しい時代のヒーローとして、多くの人々を魅了すると確信しています。
【龍馬伝】 鈴木CP
既存のイメージにとらわれずに、素直な気持ちで、新しい龍馬の伝説づくりに取り組みたいと思います。
賢明な方はすでに意図が読み取れていると思いますが、記録を追った過去3作とも「新しい」という言葉が使われているのです。
面倒くさいので、それよりも過去の作品は追っかけませんでしたが、たしか「風林火山」とかでも「新しいダークヒーロー」なんて書いてあった記憶があります。
ここ数年、大河は変な方向に進んでいると思います。
大きく話題になり始めたのは「新選組!」で近藤勇と坂本龍馬が友達という設定で非難を浴びましたが、視聴者のカンに障る捏造といわれるものが増えてきている気がします。
でも、本当にそうなんでしょうか?
例えば、名作と言われている「黄金の日日」の助左なんか、比叡山の焼き討ちでも、金ヶ崎の退き陣でも、鳥取城の飢殺しでも、小牧・長久手の戦いでも参加してます。
いくら架空の主役とはいえ、捏造だらけです。(笑)
同じく名作と言われる「信長」でも、加納随天がしつこいまでに大暴れ。
随天には毎回「エッ!」(°口°;)ってさせられたものです。
私は見ていませんが、北条時宗なんかも「エッ!」(°口°;)「エッ!」(°口°;)なんてものがあったようですし。
そう考えると、大河と捏造エピというのは、常について回っていると言えるのではないでしょうか。
ネットの普及などもあって、昔はスルーされていたことでも今はおおらかに見てくれなくなったというのもあるかもしれません。
そこらへんは、私たちも差っ引いて捉えなければいけないとは思っています。
しかしです。
「新しい」に戻りますが、制作側は「新しい」に囚われて、変な「気負い」とか「萎縮」とかがあるんじゃないですか?
大雑把な仮説ですが、大河の主人公を2種に分けて考えてみましょう。
1つは、有名人を主役とした定番物。
ここ10年では、「武蔵」「新選組!」「義経」「風林火山」「龍馬伝」
※葵徳川三代~武蔵までは見ていません。
もう一つは、知名度のあまり高くない人物を主役にした物。
「北条時宗」「利家とまつ」「功名が辻」「篤姫」「天地人」
知名度の高くない人物を主役にした場合は、おおむね視聴率が高いように感じます。
何度も書きますが、去年の「てんちじん」などは「今日はどんなことをやらかすのだろう」っていう視点で見る人が多いネタ大河での高視聴率だったんじゃないでしょうか。
それぞれ主役がメジャーではないために、捏造エピを受け入れやすい土壌があるように感じます。
しかし、定番物の場合は「義経」を除いてはことごとく低視聴率に喘いでいます。
主役や周辺人物のエピソード(史実や伝承)を多くの人が知っているために、自分の知識と違う捏造エピを拒絶する土壌があるのでしょう。
それに「新しい」という制作側の気負いが悪く作用すると、今回の龍馬伝や、私は好きだった「新選組!」「風林火山」(「風林火山」は、ただ単に「ひめしゃまぁぁぁぁぁ」を引っ張り過ぎただけかも)のように低視聴率になっていってしまうのではないかという気がします。
逆に言えば、定番物の定番エピは順当に描くべきで、エピソードの切り口や映像表現などで視聴者を引きつけるべきではないかと思います。
例えば「新選組!」の2回に渡る「池田屋事件」などは、大階段による階段落ちこそはやらなかったものの、定番物の沖田吐血(史実とは違うらしい)や藤堂平助のケガ、遅れて土方歳三が来るなどはキッチリ描いていて見応えを感じました。
龍馬伝ではかなり端折られてしましましたが、池田屋の構造が踏襲されていたことなどは、「新選組!」の大階段抜きでも十分な評価があったからではないでしょうか。
鈴木CPが勘違いをしていると思うのが、結果的に「亀山社中」と「半平太切腹」は視聴者の多くが史実通りに同時進行で描いて欲しかったと感じているのではないかということ。
いや、史実通りでなくても良かったんです。
虚構であったとしても、龍馬と半平太と弥太郎が泣く場面がきちんと積み重ねられていたら満足なんです。
結果として、「半平太切腹」→「亀山社中」という流れが納得できないから、だったら史実通りにと感じてしまうのです。
私は、第2部のだらだら拷問と「龍馬の大芝居」「武市の夢」の連続弥太郎拉致はクド過ぎと感じています。
先述しましたが、拷問シーンは評価したいですし、虚構でも「龍馬の大芝居」は嫌いではありません。
でも、繰り返したらクドいでしょ。
連続弥太郎拉致なんか、弥太郎にまで「まだ土佐にいたのか」とまで言われているでしょ。
あれは免罪符のつもりで入れたセリフかもしれませんが、制作側がそう思うなら、視聴者は100倍そう思っていますよ。
そして、第3部のジェットコースター展開。
中身が詰まっていれば面白く感じるのに、中身は辻褄の合わないカスカスで入り込めないので、視聴後の充実感が感じられない。
だから、「だったら…」とおもってしまうのです。
つまり、騙すなら上手く騙してくれ!
できねぇなら素直に史実を追ってくれ!
視聴者は、別に新しい大河や新しい龍馬像を激しく求めているわけではないと思いますよ。
むしろ「新しい」大河という表現が古くさい。
奇にこだわりすぎて自爆したどこかの国のルーピーのように、「新しい」=「奇」にこだわりすぎれば大河も自爆してしまうでしょう。
「古典」をきっちり踏まえた上で、はじめて「奇」は成立するというのは、「古典」がきっちり描けない人たちに言っても無駄なのかな?