去年の「天地人」の最悪脚本や、今年の「龍馬伝」の歴史に興味のない人の脚本などを見ていると、不思議に感じることがある。
「歴史に興味がない」とか「大河は見たことがない」などと言っている脚本家になぜ1年もの長丁場の脚本を任せるのでしょう?
最近のクール制によって、1時間×10回前後の脚本しか書いたことがない脚本家がほとんどで、大河ドラマを書くだけの力量をもつ脚本家が少なくなっているのかもしれませんが、なぜ同じ過ちを繰り返すのか。
「歴史に興味がない」なら、大河ドラマの脚本は受けないで欲しい。
また、「歴史に興味がない」を逃げ道にしないで欲しい。
さらに、大阪の陣に主人公が家康の孫の千姫を助けるとか、江戸城で石田三成を讃える演説を旗本たちにするとか、加尾と大阪で同棲生活とか、牢獄に入った武市を救うために高知に瞬間移動をして後藤象二郎の【ピー】を握り潰すとか、そういうデタラメすぎるオリジナルは勘弁して欲しい。
「大河枠」以外なら好きにやって下さい。
もしくは、大河が今後デタラメ歴史シリーズになっていくのなら、「大河」の文字を外して下さい。
話しはそこじゃないんです。
見たことはないのですが、最近は脚本に近いモノなども売っているそうですね。
それと比べると、放送ではだいぶカットが入っているらしい。
撮影も公開されているようですが、撮影したにもかかわらず、かなりカットされるらしい。
そこらへんはあまり熱心に追求するタイプではないのでネタ元は伝聞で申し訳ないですが、無くなったことによって繋がりが分からなくなってしまった場面も多いようです。
シロウトの素朴な疑問なんですが、脚本って、龍馬伝なら実質中身は40分くらいだと思うのですが、40分に収まることを目安に脚本は作られていないのでしょうか?
多少の「はば」は無ければ困る場合もあるのでしょうが、長々と書かれたものを「演出」で削られ、「編集」で削られるのでは、脚本家の伝えたいことや目指していることがズレてしまうのも当たり前では?
私も、大河ドラマの感想シリーズでは、ついに我慢できずに福田靖さんの脚本に対しての文句を言ってしまいましたが、脚本に限らず、演出や編集にもかなりの減点があるように感じています。
ただ、それも含めて、もともとの脚本が饒舌すぎるのでは?
演出は演出でクド過ぎるのでは?
役者や美術には満足しているだけに、もったいないもったいない。