時代の風:放射性物質汚染とデモ=精神科医・斎藤環
◇顔なきシステムと闘う
「文部科学省及び群馬県による航空機モニタリング」の結果が、9月27日に発表となった。広域の放射性物質による影響や避難区域等における線量評価や放射性物質の蓄積状況の評価のためになされた調査である。
この結果を見る限り、放射性物質による汚染の広がりは、予想以上に深刻に思える。茨城県南部や千葉県北西部はもとより、群馬県や栃木県にも高い蓄積量を示す地域(ホットスポット)があるのがわかる。
群馬県は山間部などで線量が高い地域があったため実測調査を実施したが、土壌撤去など除染の目安とされる毎時1マイクロシーベルトの半分以下で、「健康に影響がないレベル」と発表した。
しかし汚染地図を見ると、福島県から遠く離れた群馬県にすらチェルノブイリ事故の際の基準でいえば「放射線管理区域」(1平方メートル当たり3万7000ベクレル)に該当する場所があり、あらためて事故の影響のはかり知れなさに愕然(がくぜん)とする。加えて東京都に関してはまだ調査結果が公表されておらず、さらに汚染地域が広がることも懸念される。
年間100ミリシーベルト以下の低線量被曝(ひばく)による放射線被害は、確率的であるとされる。汚染地域内でも線量のむらは大きいし、体内に取り込まれて内部被曝が生じた場合でも、年齢や性差によって影響は異なってくる。
それゆえ、影響の大きさを事前に予測する手がかりはほとんどない。いや、実際に障害が生じた場合ですら、内部被曝との因果関係を証明することはきわめて困難だ。なにしろチェルノブイリ原発事故についてすら、健康への影響についてはいまだ一致した見解が得られていないのだから。
原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)は2008年の報告で、6000例を超える小児の甲状腺がんは原発事故と関係があるとしつつも、他のがんについては、そうした関連性を示すエビデンス(根拠)はないとしている。しかし医学的エビデンスが存在しないことがただちに「因果関係の否定」にならないのは言うまでもない。
しかし、もはやエビデンスを待つ段階ではない。東京電力による「想定外」、ないし「人災ではない」といった“言い訳”によって決定的となったのは、絶対に無事故の原発が原理的にありえないという事実だ。だとすれば原子力発電所は、ただ存在するだけで私たちの生を確率によって汚染するという“原罪”を帯びることになる。
もちろんその電力を求め消費したのは私たちだ。しかし性急に自己責任を問う前に、考えておきたいことがある。
この種の「原罪」は、もはや単純に、自然にも人間にも帰すことができない。ジャンピエール・デュピュイはそれを「システム的な悪」と呼ぶ(「ツナミの小形而上学(けいじじょうがく)」岩波書店)。
「私たちの行く手を阻む大災禍は、人間の悪意やその愚かしさの結果というよりも、むしろ思慮の欠如(thoughtlessness)の結果なのだ。(中略)そこでの悪は道徳的でも自然的でもない。その第三種の悪を、私はシステム的な悪と呼ぼう」(デュピュイ、前掲書)
デュピュイはこの「システム的な悪」について、来日講演でドイツの哲学者ギュンター・アンダースの予言的な言葉を引用している。
「われわれのせいで黙示録的な脅威にさらされているのに、世界は悪意なき殺人者と憎悪なき被害者が仲よく住む楽園の姿をまとう。そこには一(ひと)欠片(かけら)の悪意も見当たらず、あるのは見渡すかぎりの瓦礫(がれき)ばかりである」(http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/Dupuy_japanese_2011.pdf)。これはヒロシマ・ナガサキの光景についての言葉だが、ここに「3・11後の日本」の姿を重ねずにすますことは難しい。
システム的な悪。原発事故はその最悪の象徴である。私たちがその存在を求め、依存し、あるいは依存している事実すら忘れていた「電力システム」のもたらした「悪」。このシステムには「顔」がない。それは神のように遍在しながら同時に私たちの分身でもある。ここで生じた悪はただちに私たち全員を共犯関係に巻き込み、全員が共犯であるがゆえに、ただちに「責任」はうやむやになる。
そう、放射線を浴びるまでもない。システムはすでに私たちを匿名化し、とうの昔に確率的存在に変えてしまっていたのだ。
デュピュイは講演で次のように主張する。システムの悪における責任の問題を考えるという困難を乗り切るためには、「象徴的思考」に訴えよ、と。フィクションとしての集合的主体(「私たち」や「原子力ムラ」などの)を想定することが、それを可能にするだろう。
顔を持たないシステムに対抗すること。それは私たちが「顔」や「名前」を持つ存在として「声」を上げることを意味するだろう。すでに都内では数万人規模の反原発デモが繰り返されている。この種の運動が久しくみられなかった「楽園」において、これは喜ばしい兆候だ。支援と擁護と参加をもって、その歴史的意義への肯定に代えたい。
毎日新聞 2011年10月2日 東京朝刊