母が隠れ住んでいるアパートに行き、父の容態を妻と伝える。
私も妻もそこは伝えることを仕事としているので、見てきたこと、聞いてきたこと、思ったことなどは分けて伝えるように心がけている。
自分が実家に関わらないようにしているのは、弟は自分の力で何かを実行するという力がかなり乏しいので、私や妻が入れば、ほとんどがその通りになってしまい、弟が潰れてしまうから。
相続は放棄しているつもりなので、絡んでしまえばそこも避けて通れなくなってしまうこともある。
実家を維持していた聡明な母も、父の晩年に付き合っている中ですっかり歪んでしまい、広く深く物事を見る力を全く失ってしまっている。
父がもう退院をする可能性がほとんど無いということを弟から聞いて、早々にアパートを引き払い、実家に戻ることを決めてしまっているほど老いているのは驚いた。
その割に、父の入院先には行かない、葬儀にも行かないと言っているのだから、世間の誹りを気にする割には想像できなくなっているらしい。
弟がイエスマンなのも酷過ぎるが、もう諫言してくれる人も居なくなっているのだろう。
最初に母だけと話が出来たのは良かった。
父が息を引き取った時にどうするのかは、案の定、なにも考えていなかった。
すぐにどこかの葬儀社に連絡をして父を引き取らなければならないこと、その時に、父を葬儀社の安置所に運ぶか自宅に運ぶかの選択をしなければならないこと。
通夜や告別式なども含めて、本来喪主である母が出ない中で、準備したいくつかの段取りやプランを説明していくと、自分の無謀さや異常さを悟り、喪主をすることを覚悟したようです。
仮に父が火葬式で済ませてしまうことになれば、自分も火葬式になるのが筋ということも気がつかなかったらしい。
そんな母では無かったのにと思うと、妻も同じ気持ちでした。
ひと通り話が終わった時に弟が登場。
また、イチから話しはじめなければならないのが面倒くさい。
同時に、靴の件は看護婦さんと話をしたとか、葬儀については互助会に入っているところから手紙が来たなどの僅かなアピールをしてくるのも面倒くさい。
実際に動かなければ、何も始まらないことを、父の病気を通じて少しずつ動き方を教えてきたつもりだけれども、この期に及んでも理解していないこともイライラする。
「互助会に入っているならそれを使えばいい。自分の名義じゃないからお前が連絡しろ」というと、言い訳をする様もガッカリする。
母が「自分が葬儀に出て喪主をする」というと、それも驚いていることが情けない。
母のこの行動が心変わりとおもうのだろうか?
人の心を動かすということが理解できないのだろうということは分かるけれども、結果として後々苦しむのも母なのだからという行動は、弟には親不幸に見えるようだ…。
いつまでも人の表面しか見えないのは、私や妻には不幸に見えるのだけれども、それさえも気がつかないというのは逆に余計な気を遣わなくて幸せなのかもしれないと思ったりもします。
いつものことだけれども、父に対しても、母に対しても、妻の存在は本当にありがたい。
自分を殺して、相手を和らげる力を持っているし、覚悟を決めれば、人が言いにくいことを諫言することもできる。
2人が同じ方向に向かって、違う言葉で働きかけることが出来るのは、一緒に仕事をしてきて阿吽の呼吸となるように工夫をしてきたこともあるけれども、それ以前に同じ根っこを持っているのだと思う。
1日動き回って、閉店間際の龍泉寺の湯に飛び込みました。
お風呂は、凝った身体も心も和らげてくれます。