福島県内最大の避難所が閉鎖
8月31日19時40分
震災や原発事故の発生からまもなく半年となるなか、一時、福島県内で最も多い、およそ2500人の被災者が生活していた郡山市の避難所が、31日、閉鎖されました。
震災や原発事故の影響で、福島県内では、最も多いときで、体育館など410か所の避難所に7万3600人余りが避難していましたが、仮設住宅や借り上げ住宅など被災者の当面の住まいの確保にめどがついたとして、福島県はことし10月までにすべての避難所の閉鎖を決めています。このうち、一時、およそ2500人の被災者が生活し、福島県内で最大の避難所だった郡山市の複合施設「ビッグパレットふくしま」は、31日で閉鎖されました。閉鎖を前に施設では、残っていた被災者が荷物を片づけたり、県の職員やボランティアの人たちが床や廊下を掃除したりしていました。このあと閉所式が行われ、この施設に役場を移転している川内村の遠藤雄幸村長は「避難所ではあらゆる人の気遣いや心の暖かさを感じてきました。お世話になった人たちに恩返しをするには、ふるさとに戻って復興していく姿を見せることだと思います。これからも避難生活が続きますが頑張りましょう」とあいさつし、避難所が閉鎖されました。福島県内では、31日だけで9か所が閉鎖され、残っている避難所は9か所になりましたが、今も、体育館などの避難所には数百人が生活を続けています。今後、閉鎖に伴って、さらに減少する見通しですが、福島県は子どもの学校や仕事の事情などで避難所から移ることが難しい被災者についても、引き続き、住宅の確保を進めたいとしています。
福島県内でも避難所が相次いで閉鎖されていますが、現在も130人余りの被災者が生活している福島市の避難所では、被災者はさまざまな理由で、簡単には避難所を離れることができず、閉鎖のめどは立っていません。このうち、南相馬市から小学1年生の長男と4歳の長女とともに避難している相浦利光さん(28)の家族は、3月から避難しています。子どもを避難所近くの学校に通わせていて、ようやく慣れてきたため転校は難しいと考え、避難所に残っていましたが、近く、福島市内のアパートに移ることを決めました。相浦さんは、「子どもはたくさんの友人ができてご飯を忘れるくらい楽しく遊んでいました。避難している人たちにも子どもの面倒を見てもらえて、とても助かっていたのでなかなか移りづらかったです」と話していました。移転先は、学校から歩いて30分以上かかるということですが、相浦さんは子どもを転校させずに通わせたいとしています。相浦さんは、「避難所だと子どもが病気になったときにどこの病院へ行けばよいかなど周囲に人にいろいろ教えてもらいました。これからは自分たちだけでの生活なので、とても不安です」と話していました。また、警戒区域に指定されている南相馬市の小高地区から避難している渡辺勉さん(78)は、原発事故の影響で、しばらく自宅に戻ることができないうえ、移転先がなかなか見つからなかったということです。渡辺さんは、ようやく仮設住宅への移転が決まりましたが、「避難している人も半分以上に減ってしまい、とても寂しいです。自分も出て行かなくてはいけないんですけど、避難所には子どももいてにぎやかだったし、本当はずっとここにいたかったです」と話していました。
避難して1週間ほど過ごした伊勢で、寒さに凍えながら車中泊をして神社をめぐって悟ったこと。
「自分が動かなければ、なにも進まない」
困って困って、悩んで悩んで、猿田彦さんで引いた御神籤に背中を押されて、覚悟を決めて丹沢山麓に戻って来ました。
放射能雲に追っかけられるように西に逃げ、ヘリコプターのバケツリレーや消防士による放水を見ていたときの思いは忘れない。
そのときの気持ちがあるから、大学生のころに戻って「反原発」。
公務員を辞めて、毎日の忙しさから原発のことを忘れ去っていた自分に腹が立ち続けています。
福島の方々も、この数ヶ月の出来事は、自分の一生を激変させてしまう時間だったと思います。
前進するにも、後退するにしても、前を向いて進んでください。
自分も出来ているかはわかりません。
でも、前を向いて進めば間違えはないと思います。
人生は一度です。
避難所で過ごした時間も、気の持ち方次第で絶対にプラスの時間に出来ます。
プラスの時間にしましょう。