首都圏壊滅の危機感 菅前首相に聞く
2011年9月6日 07時09分
2日に退任した菅直人前首相が5日、本紙の単独インタビューに応じ、東京電力福島第一原発の事故発生当初に原子炉の状態が把握できず、水素爆発が相次ぐ中で「東京に人っ子一人いなくなるような事故に拡大するかもしれない」と、首都圏壊滅の危機感を持ったことを明らかにした。事故の体験から「日本の技術なら大丈夫」との考えが変わり、7月の「脱原発依存」宣言につながった。
菅前首相は、事故四日後の三月十五日に東電本店に乗り込んだ理由を「午前三時ごろ、海江田万里経済産業相(当時)から『東電が第一原発から撤退の意向を示している』と言われた」ためと明言。「(第一と第二で)十基の原発と十一個の核燃料プールを放置したら、何時間か何十時間の間に原子炉とプールの水は空になり、どんどんメルトダウン(炉心溶融)する」との危機感から、本店に政府と東電の対策統合本部を設けたと述べた。
その上で「撤退したら今ごろ、東京に人っ子一人いなくなっていたかもしれない。まさに日本が国家として成り立つかどうかの瀬戸際だった。(旧ソ連)チェルノブイリ事故の何倍、何十倍の放射性物質が出ていたかもしれない」と説明。こうした体験から「日本の技術なら大丈夫」との考えを改め、原発に依存しない社会を目指そうと思ったという。
五月六日に中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)の運転停止を要請した理由は「東海地震が発生する確率が非常に高いとの研究結果があり、事故が起きたら完全に東京と大阪の間が遮断されて、日本の経済、社会に極めて大きな影響を及ぼすから」と話した。
九州電力玄海原発(佐賀県玄海町)の再稼働目前に新たな安全検査の導入を決めた理由は「(経産省原子力安全・)保安院は、私の知らないところで、保安院だけで再稼働を判断する従来のやり方を取ろうとした。それでは国民の理解を得られないと言った」と述べ、経産省の対応を批判した。太陽光などの再生可能エネルギーについては「産業的にも可能性があるが、電力業界と経産省が三十年前から抑え込んできた。それをどう突破するか。私も頑張ってやろうと思う」と述べた。
高速増殖炉もんじゅ(福井県敦賀市)の運転再開や核燃料サイクルは「技術的に極めて難しい。根本的に再検討する時期にある」との見方を示した。
(東京新聞)
まあ、日本の政治家なんていうのは、どんな仕事をしたのかということより、どうやって良いイメージを作るかにかかっているのだと思います。
菅前首相の原子力政策に関しての手柄というと、確かに「撤退を認めなかった」「浜岡原発を止めた」「玄海原発を稼働させなかった」ことかもしれない。
「撤退を認めなかった」のは確かに首相の頑張りですが、ちょっとは自分が避難民を大量被曝させた自覚はあるのでしょうか?
その決断をするべき位置にいて、他の誰が異論を唱えても覆すことができる地位に居ながら、SPEEDIを公開せず、後手後手の避難になった責任は重いと思います。
最近では、メルトダウンについて早くから知っていたというストーリーに傾いていますが、これには違和感がある。
ヘリで飛んでいくときには、この男は絶対知らなかった思う。
だって、卑怯な男が火中の栗を拾いに行くわけがない。
また、その後の拡散された放射能に対する対応も、良かったことを挙げることさえ難しい。
「浜岡」「玄海」に関しても、この男の「信念」というものではなく、「支持率」だったことは十分に予想できる。
国民は、「脱原発」に傾いてきていても、首相の発言の底の浅さから支持しなかっただけだ。
ちなみに、浜岡原発は停めたから安全と思っている人も多いけれど、炉の中に燃料棒は入ったままのアイドリング状態が続いているだけ。
1号機に至っては、燃料棒に髪の毛1本分の穴が開いて損傷しているとして、長い年月、抜くことさえできない。
玄海1号機は、停めるとガラスを急激に冷やすと割れるような現象が起こる可能性がある。
今からでも遅くないから、懐の中のものをいろいろと吐き出してくれたら、国はひっくり返るだろうけど少しは評価してもいい。
でも、首相を退いたからと、悠々自適な生活をされたら堪らない。