大昔の“災害痕跡”が示す未来への警告
2011.10.15
東日本大震災後、震源域の周辺では余震や誘発地震が続いている。日本列島で今、何が起きているのか。遺跡や文献に残る災害の痕跡と最新の研究成果から、未来を守る手掛かりを探った。
■北海道を襲った巨大津波
「とんでもないものを見つけてしまった」-。1998年、北海道・十勝平野の太平洋岸で、切り立った海岸段丘のてっぺんに立った北海道大の平川一臣特任教授(地形学)がつぶやいた。
高さ15メートルの段丘上に、海底を転がって丸くなった石や海砂が広がる。この高さをやすやすと越えられたのは、高さ20メートル級の巨大津波しかない。「とてつもない規模。どんな地震か想像を絶する」
海側プレートが陸の下に潜り込む千島海溝周辺では引き込まれた陸側プレートが跳ね上がるたびに地震を起こしてきた。
だが、北海道で詳細な文献が残るのは19世紀以降。記録の空白を埋めたのは、研究者が地道に探した津波の痕跡だった。
98年以降、こうした津波堆積物は北海道各地で確認され、過去6500年に十数回、300-500年ごとに大津波が襲来したと判明。高さ約20メートルの巨大津波は17世紀初頭と最も新しく、過去最大級だった。
堆積物の分布や地震で隆起した海岸段丘の調査などから、十勝沖、根室沖で発生した連動型地震が想定され、国の中央防災会議は「500年間隔地震」という名称で被害想定の対象とした。
しかし、北方領土の色丹島で17世紀初頭の津波堆積物が見つかり、震源域はさらに東へ広がる可能性も。「津波の規模や浸水域は毎回異なっている。地震も単独発生や連動型などさまざまなバリエーションがあり、十勝沖から根室沖、さらに色丹島沖、択捉島沖と連動した時もあったのでは」
北海道は東日本大震災後、想定地震を見直すワーキンググループを設置。津波による浸水予測図の改定を始めている。
東大地震研究所の古村孝志教授は「連動型地震が怖いのはプレートがずれ動く範囲だけでなく、ずれ動く量(断層が食い違う量)も大きくなり、大規模な海底変動が生じて津波が高くなること。加えて十数分の時間差で地震が連動すると、それぞれの地震で生まれた津波が重なり、高さがさらに1・5-2倍になることもある」と言う。
老中、田沼意次の命で北方へ向かった探検家、最上徳内は1786年、択捉島東方のウルップ島(得撫島)に日本人で初めて上陸。津波で丘に打ちあげられたロシアの大型船を見た、と書き残した。
平川特任教授は「自然は正直に記録を残している。地球の歴史に学び、将来を考えなければならない」と警告した。
■福島の縄文ムラに地割れ跡
掘っても掘っても、底が見えない溝。「まるで地面に開いた大きな口。自分は一体何を発掘しているんだろう?」。1990年秋、福島県相馬市の段ノ原B遺跡を調査していた同県文化振興事業団の吉田秀享副主幹は、連日頭を悩ませていた。
宮城県境に近い丘陵上に広がる縄文時代前期の大集落跡。最も栄えた約6000年前は、約4万7000平方メートルの範囲に約100棟の竪穴住居があった。
ジグザグに延びる奇妙な溝が現れたのは、丘陵の肩に近いムラ東端。長さ約90メートル、幅4-5メートル、深さ2メートル以上もあり、底から大量の土器や木を燃やした跡が見つかった。
「地割れですよ」。謎を解いたのは、石材の調査に訪れた地質学者。周囲には、地滑りで左右が食い違った地層もあった。「地震考古学という言葉も知らなかった。驚きました」。溝の中にあった土器から、地震はムラの最盛期と考えられた。
同遺跡は、宮城県亘理町から福島県南相馬市にかけて約40キロ続く双葉断層のほぼ真上。東京電力福島第1原発に近い断層南側は地質学的調査で約2000年前に動いたことが判明しているが、遺跡を含む北側の活動歴は分かっていなかった。
産業技術総合研究所の寒川旭招聘研究員(地震考古学)は「遺跡に近い断層の一部が動いたとすれば、震度は7に近く、竪穴住居はほぼ全壊しただろう。地割れをがれき処理場に利用し、壊れた住居の廃材などを燃やしたのでは。合理的なやり方だ」と話す。震度7なら、阪神大震災級だ。
双葉断層は、政府の地震調査委員会が「東日本大震災の影響で地震発生確率が高まった可能性がある」と発表した5つの活断層の1つ。2005年の長期評価では「今後30年以内に地震が発生する確率はほぼゼロ」とされたが、震災後は周辺で誘発地震が続いている。
地震予知連絡会の島崎邦彦会長は「遺跡の話は初めて聞いた。長期評価は断層南側のデータを基に作ったが、北側は6500年前に動いた可能性が出てきた。最終活動からの時間が長い分、注意が必要だ」と指摘する。
段ノ原Bムラの人々はどうなったのか。「がれきをきれいに片付け、地震後も半世紀近く住み続けた。昔も今も、人は古里から離れられないものですね」と吉田副主幹。復興への思いは、今の私たちと同じだったかもしれない。
■長野“液状化”古銭が証明
「雷が落ちたような激震と音で一夜に14度揺れた。建物や垣が倒れ、つぶれた」。平安時代の史書「続日本後紀」によると、841年2月、信濃国司から朝廷に大地震の知らせが届いたという。
この時に被災したとみられる集落跡が1989年、千曲川の自然堤防上にある長野市の篠ノ井遺跡群で発掘されている。
長野県立歴史館の西山克己専門主事(考古学)は「洪水で埋もれた平安時代の竪穴住居を掘っていくと、床面に地割れが走り、液状化で地中から砂が噴出していた」と話す。別の竪穴住居の床には、835年に鋳造された皇朝十二銭の『承和昌宝』が1枚残っていた。
「ムラが埋まったのは888年に千曲川流域で起きた『仁和の大洪水』とみられ、地震発生は835-888年に絞られる。続日本後紀にある841年の信濃大地震と考えられる」と西山さん。
信濃国(長野県)は、国内最大級の糸魚川-静岡構造線(糸静線)断層帯を抱える地震多発地帯。地質学的調査で、糸静線中央の牛伏寺断層が約1200年前に活動したことが分かっている。
2つ前の史書「続日本紀」は、762年にも美濃と飛騨、信濃で地震があり「被災者に穀物を給付した」と記す。牛伏寺断層がいずれかの地震を起こした可能性が高い。
当時の信濃国府はいずれも牛伏寺断層に近い長野県松本市か上田市にあった。841年の原因が同断層なら、国司は直下型地震の突き上げるような揺れに肝をつぶしただろう。
東日本大震災後の6月30日、同断層近くでマグニチュード(M)5・4、松本市で震度5強の地震が起きた。地震予知連絡会の島崎邦彦会長は「牛伏寺断層は糸静線の要。動いたら、M8級の地震になる可能性がある。活動間隔が約1000年で次がいつ来てもおかしくない上、震災で地殻がゆがみ、糸静線が動きやすくなった。心配だ」と言う。
9世紀は信濃に続き、富山県と新潟県、兵庫県で大地震が発生。富士山、鳥海山(秋田、山形県)が噴火し、三陸で貞観地震、近畿で仁和南海地震と大災害が相次いだ。
産業技術総合研究所の寒川旭招聘研究員は「阪神大震災以来、地殻の活動期に入ったとされる現代とよく似ている。東日本が復興半ばで別の大災害が起きたらどうなるか。国は広域救助や支援策を、市民は自分の命を守る方法を考えなければならない」と話した。